【バイセクシュアル恋愛雑感】女の私に初めて彼女ができた話

恋愛

前回はバイセクシュアルがどういうものかについて、当事者の目線で書いてみました。今回は、私が初めて自分がバイセクシュアルなのだと自覚した出来事について書いてみたいと思います。

人はいつ自分のセクシュアリティに気づくのか

そもそも、人はいつ自分のセクシュアリティに気づくのでしょう?幼稚園生の頃の初恋でしょうか?それとも中学生になって人生で初めてできた恋人でしょうか?

 

私の場合は自分がバイセクシュアルだと気づくきっかけを得たのは高校2年生の時。半年ほど付き合っていた束縛体質の彼氏と別れ、やっと勉強や部活にのびのびと取り組めるようになり、交友関係を少しずつ取り戻すことができた頃のことです。

数人の仲のいい友達ができていくなかで、なつみ(仮)ちゃんという後輩と特に仲が良くなりました。

 

とはいえ、なつみちゃんとの間に特別な交流があったというわけではありません。親交を深めたとはいっても、1年生の時に作った試験対策用のノートを貸したり、お互いのおすすめの漫画や本を貸し合ったりする程度でした。

 

彼女を暴漢から守ったり、突然の雨で困っているところに颯爽と現れて傘を貸したり、あるいは二人きりで休日に買い物に行ったりしたことがあったわけではなく、私からすればあくまでも“仲のいい後輩の一人”という存在だったのです。

人を好きになっただけなのに謝る人がいる

そんななつみちゃんが、ある日突然告白してきました。

 

何度か恋愛をしていると、相手が告白してくるタイミングになんとなく気づくようになります。私は非常に勘の鈍い方ですが、それでも告白される予兆のようなものにはピンときます。しかし、なつみちゃんの時は全くそれに気づきませんでした。

そのせいか、かえって告白されたときのことははっきりと覚えています。

 

試験勉強をしていたら突然好きだと言われた

なつみちゃんに告白されたのは、試験期間の少し前に勉強を教えてほしいと言われ、自分の教室までなつみちゃんに来てもらい、彼女に勉強を教えていた時のことでした。

彼女を隣の席に座らせて漢文の教科書にメモを書き込んだり、試験に出やすい構文についてマーカーを引いたりしながら、私は当時気に入っていた紙パックのリプトンレモンティーを飲んでいました。

なつみちゃんは考え考え漢文を読み進めていき、時折私に質問をしてきました。途中で脈絡もなく「綺麗な字を書くよね」と言ったら、彼女からははにかんだ笑顔と「ありがとうございます」というシンプルなお礼が返ってきたことを記憶しています。

 

試験前になると、放課後教室に残って自習する人が増えるのですが、その日はいつもよりもスクールバスの本数が少なかったとかで下校する人が多く、最後まで教室に残ったのは私となつみちゃんの2人だけ。

ほとんど無駄話をすることもなく2時間ほど経ち、だいぶ暗くなってきたので今日のところは終わりにしようと声をかけたとき、なつみちゃんがすぐに返事をしなかったので、不思議に思って「帰らないの?」と確認しました。

いまだにあの申し訳なさそうな表情が忘れられない

なつみちゃんはやはり何も言わず、広げたままのノートをじっと見下ろしています。綺麗な字が並んでいるノートと、校庭の方から聞こえてくる運動部のまばらな掛け声と、紙パックを伝う水滴に「なんだかとても青春だ」なんて思っていたら、なつみちゃんがほとんど聞こえないような声で「好きなんです」と言いました。

あまりに声が小さくてもう一度聞き返しましたが、なつみちゃんは何も言いませんでした。

 

何が?とか、誰が好きなの?と聞くほど無神経にはなれず、なつみちゃんがなにか喋ってくれるのを待ちましたが、彼女は一向に口を開いてくれません。しかたがないので間を繋ごうと「びっくりした」と言ったら、なつみちゃんは心底申し訳なさそうで、恥ずかしそうな表情を浮かべました。

私の何気ない一言で相手にこんな表情をさせることになるとは思いもよらず、すぐに「言葉選びをしくじった」と思いました。とはいえ、今更取り繕ってもかえって嘘くさくなるだろうと思い、そのまま無理に話を続けることにしました。

「びっくりしたけど、嫌とかそういうことじゃないよ」と言うと、なつみちゃんは相変わらず申し訳なさそうな表情のまま「ごめんなさい」と呟きました。

 

何が「ごめんなさい」なんだろう?何を申し訳なく思っているんだろう?

深く考えなかった当時の私は、誰かを好きになることに対して申し訳なさを感じるということが理解できませんでした。「好きなら好きでいいじゃん」という軽い気持ちで「どうしたい?」と聞いてみましたが、私よりもずっと思慮深いなつみちゃんからは答えが返ってきません。

 

会話の終着点がわからないことが不安で、私も徐々に視線が泳ぎ出しました。自分なりに色々考えた結果出てきたのは

「何をしたらいいんだろう…付き合うといい?」

というどこまで相手任せな一言。

なつみちゃんは申し訳なさそうな表情はそのままで私の顔を見上げてきました。その時に感じたのは嫌悪感や同性から寄せられた好意に対する戸惑いではなく、目先の会話の正解を選べたことに対する安堵でした。

「じゃあ付き合おうか」

確かめるためにもう一度聞くと、なつみちゃんは小さく頷きました。顔は真っ赤でしたが、彼女も嬉しそうと言うよりは安堵の表情を浮かべていたように思います。

こうして私たちは2人ともほっとした顔をして、なんとなく付き合うことになりました。

同性と付き合ったはいいけれど…

さて、初めて女の子と付き合ったのはこの時ですが、実はこの時は自分がバイセクシュアルだとは思っていませんでした。たまたま付き合う相手が女の子だったというだけで、それに特別な呼び名がつくとは考えもつかなかったのです。

 

そのため、私は友達だったときと何を変えればいいのか分かりませんでした。2人で映画に行ったり買い物に行ったりすることもありましたが、それはデートというより友達と遊んでいる感覚に近かったので、“付き合う”ということがよく分からないまま一緒に過ごしていました。

 

学内で2人で歩いていたり、お弁当を食べていても周りから付き合ってると思われることはなく、仲の良い先輩と後輩のコンビとしか思われなかったでしょう。異性とと付き合っていると、周りからも「ああ、あの人たちは付き合っているんだな」という視線を向けられるため、無意識のうちに自分の立ち位置が理解できます。

 

しかし、周りからのバイアスがかかった視線がないと、なにもかも自分たちで定義しなくてはいけません。同性と付き合うという経験も心構えもなかった私は、結局なつみちゃんと別れるまでその定義づけができないままだったように思います。

バイセクシュアルだと自覚したのはあとになってから

バイセクシュアルだと気づいたのはなつみちゃんと別れてしばらく経ってからのことです。その後も何人かの恋人ができましたが、2人目の彼女ができたときに「あれ、これってバイセクシュアルというやつでは?」と気づきました。

 

今思えば、なつみちゃんの告白をOKしたのは「好きになるのに性別なんて関係ない!」という前向きな理由ではなく、目先の会話の最適解を選びたいという消極的な理由だったようにも思います。

 

少なくとも「同性から告白されたことで目の前はパッと開けて自分のセクシュアリティに気がついた」というような素敵なエピソードではないということは確かです。

ドラマティックじゃないLGBTは“つまらない”のか

最近はLGBTの人がSNSなどを通して、自分の恋愛について発信していますよね。その多くが「自分は男だが幼稚園生の頃から男の先生にときめいていた」「中学校の制服のスカートを履くのが辛くてたまらなかった」という話で、ときにはいじめなどの痛ましいエピソードを伴っています。

 

それもあってか、LGBTならなにかドラマチックなエピソードを持っていると思われがちですが、実際はそんなことばかりではありません。ただ人を好きになったり、嫌いになったりしているだけなので、面白みのある話ばかりではないのです。

また、逆にLGBTの恋愛を妙に高尚なものととらえて幻想化されてしまうのも、なかなかに荷が重いものです。

心と体の性が一致してるかどうかもポイントかもしれない

ただし、私が特別なエピソードもなく同性と恋愛をしてきたのは、心と体の性の一致が理由かもしれません。

もし私が体は女性で心が男性だったとしたら、自分のなかでは自然の流れで人を好きになっただけなのに、相手からは体の性別が理由で拒絶されというような経験をしていた可能性もあるでしょう。

 

人間は体と心の成長に合わせて少しずつアイデンティティを確立していきます。思春期は「自分が何者であるか」という人の存在の根幹に関わる部分があやふやな状態です。その時期に生物学的な「自分」と内面的な「自分」が一致しないことに気づいてしまうというのがどれほど恐ろしいことなのか、私には想像もつきません。

 

そういう意味では、私は苦労のない恋愛をしてきたのかもしれませんね。

LGBTに課せられた“見世物”としての役割

残念ながら、私たちLGBTはには一種“見世物”のような役割が求められることが多く、悲しいエピソードや感動的なエピソードを持ち合わせていないと「つまらない」と言われてしまいます。

 

重ねて言いたいのですが、全員が全員面白いエピソードばかりを持っているわけではなりません。

もちろん、まるで映画のような心震えるエピソードを持っている人もいるでしょうが、私のように流れに身を任せているうちになんとなく自分がバイセクシュアルだと気づいたような人もいます。

 

ストレートの人であっても、月9のようなハラハラドキドキする恋愛ばかりをしている人ばかりではないでしょう。ストレートの人たちに比べれば社会的な障壁は多いですが、人を好きになったり嫌いになったりする本質的な部分はバイセクシュアルであっても変わりません。

“見世物”になれるほど特別なことはない

同性の後輩に告白されたことがバイセクシュアルだと気づくきっかけ、というと何やら特別なことが起こったようにも思えますが、当の私からすればそれは他の恋愛となんら変わらない出来事のひとつです。もっとも、あの申し訳なさそうな表情は特別でしたが。

 

ただ人を好きになっただけで法に触れているわけでもないのに、それを申し訳なく思わなくてはいけないような時代が早く終わることを願っています。

 

文/丸楠曲

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