ここ数年で、「LGBTQ」という言葉が一般的にも浸透してきました。ハリウッドセレブやアーティストのカミングアウトに合わせて、「LGBTQをあからさまに差別するのはかっこ悪い」という認識が、特に若い世代を中心に徐々に広まってきているようです。
とはいえ、まだ曖昧で理解されないことも多いテーマ。そこで、バイセクシュアルであるライターが自分のセクシュアリティでもある「バイセクシャル」について考えてみたいと思います。
「バイセクシュアル=両性愛者」と定義されているけれど…
バイセクシュアルといえば、「両性愛者」と説明されることがほとんど。噛み砕けば、男性と女性の両方に恋愛感情や性的欲求を抱くセクシュアリティのことを指します。
概ねこの説明で間違ってはいないのですが、一言で「バイセクシュアル」といっても、生物学的な性別が女性・性自認は男性・男性とは男性として付き合い女性とは男性として付き合うというパターンや、生物学的な性別は男性・性自認は男女どちらでもある・男性とは女性として付き合い女性とは男性として付き合うというパターンもあります。
言葉上の定義で言えば「バイセクシュアル=両性愛者」と言い切ることができるかもしれませんが、その実もう少し複雑です。
ちなみに私は生物学的に女性で、性自認も女性です。恋愛対象は男性と女性両方で、これまで交際経験を振り返ると、ほぼ男女半々くらいでした。女性と付き合う場合も男性のように振舞うのではなく、あくまでも女性として女性と付き合っています。
バイセクシュアル診断なんてものもあるけれど…
自分のセクシュアリティに悩むと、なんらかの明確な判断基準によって判断されたいという気持ちになりますよね。巷では、選択式のバイセクシュアル診断メーカーのようなものもあります。
私は何かの診断を受けて「自分はバイセクシュアルなんだ」と思ったわけではありません。元々男性も女性にもそこまで強い興味がなく、付き合いたいと言われれば性別に関係なく付き合うという繰り返しのなかで、別段性別にこだわりがないということに気づいたタイプです。
厳密にいえば、バイセクシュアルだということを“診断”することは難しいと思います。セクシュアリティは何か明確な判断基準に基づいて第三者が判断を下すものではなく、自分自身で決めるもの。そのため、自分で感じたセクシュアリティを名乗っていいと思います。
例えば、過去には男性と付き合っていたが、ここ最近は女性と付き合っているという女性がいるとしたら、その女性自身がバイセクシュアルだと思えばバイセクシュアルですし、レズビアンだと思えばレズビアンと名乗っていいのです。
とはいえ、上のようなケースだとレズビアンから「あなたはレズビアンじゃないからレズビアンを名乗るな!」と責められることもあるそうですが…。
パンセクシュアルとの違いは?
バイセクシュアルはパンセクシュアルと混同されることがあります。違いは、バイセクシャルが両性(男性と女性)に恋愛感情や性的欲求を抱くのに対し、パンセクシュアルは全性(男性や女性に限らず、Xジェンダーなどの全ての性)に対して恋愛感情や性的欲求を抱くセクシュアリティのこと指します。
私はバイセクシュアルを自称していますが、それはこれまで男性と女性以外の性別の人と交際した経験がなく、自分が恋愛感情や性的な欲求を抱けるのかわからないからです。
もしかしたらパンセクシュアルなのかもしれませんが、如何せん経験がないのでバイセクシャルとしています。
男性らしさ、女性らしさそれぞれに惹かれるという人はバイセクシュアル、恋愛に性別は関係ないという人はパンセクシュアルと考えることもできるようですが、厳密に分けられるとも限りません。なんとも曖昧で中途半端にも思えますが、「本人の認識による」部分が非常に大きいのです。
「恋愛」というものはそんなに立派なものか?
そもそも、性別やセクシュアリティに関係なく、恋愛に対する熱量は人それぞれです。残念ながら、多くの場合「恋愛経験=人間力」という捉え方をされます。そのためうっかり「恋愛にはあまり興味がないんです」と素直な気持ちをこぼしてしまうと「モテない人の負け惜しみ(笑)」と嘲笑われたり、「人間としてどこか欠落している」と心配されるはめに。
もちろん、他人と密な人間関係を築いたり、それを維持したりするということは非常にエネルギーを使う行為であり、人間としての地力が育まれるとは思います。しかし、恋愛でのみそのような力が育まれるかといえばそうではないでしょう。
家族や友人、あるいは仕事上の関係であっても、自分以外の他者とコミュニケーションを取り関係を構築していこうとすれば、人間力とやらは育まれるはずです。
なぜ多種多様な人間関係のなかで「恋愛」だけがこうも特別扱いされるのか、いまだに私はきちんと理解できていません。
恋愛をして当然という同調圧力がしんどい
私自身も中学生や高校生の頃は恋人を絶やしてはいけないような気持ちになっていました。それは、自分自身から自然発生した気持ちというよりは、同調圧力により気づかないうちに形成されてしまった気持ちだっと思います。
中学生や高校生の時は、何組の誰と何組の誰が付き合ったとか別れたという話が狭い学校のなかで最も盛り上がるゴシップでした。そのゴシップの中に入れない人間は「出来損ない」にカテゴライズされてしまうため、誰もが「恋愛をしなくては」という義務感のようなものに突き動かされていました。
その結果は、「過去に付き合っていた人は?」という問いかけに対して、カウントしていいのかどうか悩むような希薄な関係の相手が増えただけでした。メールアドレスを交換して、何度かやりとりをしただけで別れたような人もいます。
人間関係の構築における失敗ケースをたくさん経験できたと前向きに捉えればいいのかもしれませんが…。少なくとも、強迫観念に追われて必死にするようなものではないような気がします。
お互い干渉せずに尊重しあえばいいのに…
恋愛が生きがいという人もいるでしょうし、そういう人の気持ちは理解できないものの否定する気はありません。
ただ、今のところ「恋愛とは尊いもの」という意見を持っている人の方がマジョリティなようで、マジョリティの人たちは悪気なくマイノリティを否定してきます。お互い理解できないなりに適度な距離感を保って相手の主張を尊重できればいいのに…どちらかが「正しい」と断定できないとダメな人が多いのでしょうね。
バイセクシュアルにだってストライクゾーン(死語)はある
恋愛的な意味で人を好きになるということ自体があまり起きない私にとって、相手が男性であれ女性であれ、多くの場合は「友人」止まりで「恋愛」のフェーズまでいかないことがほとんどです。それに伴い、いわゆるストライクゾーンも非常に狭いと自覚しています。
バイセクシュアルということをカミングアウトすると、「じゃあ、恋愛対象が多くていいね!」と言われることがあるのですが、おそらく以下のようなイメージをするケースが多いのでしょう。
バイセクシュアルの人がよく悩むのが、この「男でも女でもなんでもいいんでしょう?」という偏見です。ストレートの人からのみならず、ゲイやレズビアンの人からもこのようなことを言われることは珍しくありません。
たしかに、上の図のように、いわゆるストライクゾーンそのものが広い人もいるでしょう。しかし、下の図のような人もいます。
次の図のようなケースもあるでしょう。この場合、人によってはパンセクシュアルになるかもしれません。
さて、私はというと、以下のようなイメージです。恋愛に対する熱量が少なく、ストライクゾーンも狭い。好みの男性と女性のタイプは一致しません。
まれに、私がバイセクシュアルだということを知った同性の人から「え!じゃあ私のこともそういう目で見られるの!?」と聞かれることがあります。
この図を見てわかっていただけるかと思いますが、ストライクゾーンに入っていない方については全く“そういう目”で見られないので、安心してほしいのです。
なぜ自分が絶対に恋愛対象になり得ると思うのか
この手の「じゃあ俺/私のこともそういう目で見ていたのか!」発言をするストレートの人の話をたまに聞くことがありますが、なぜ自分がストライクゾーンに食い込んでいると思ってしまうのでしょうか。
自分に置き換えて考えてみてください。道ゆく異性を全て恋愛対象として見ている方もいるかもしれませんが、大抵の人は無意識のうちに容姿や年齢、雰囲気などで恋愛対象を選別しているはずです。
それはゲイやレズビアン、バイセクシュアルであっても同じ。もちろん、相手がストレートの人であってもストライクゾーンに入っている人であれば好きになる可能性がありますが、基本的にストライクゾーンから外れている人に対して恋愛感情を抱くことはあまりないと思います。
「恋愛対象はともかく、性の対象として見てる!」
性欲は恋愛感情と必ずしも結びついていないんだから、ストライクゾーン関係ないだろうと思う方もいるかもしれません。でも、それはストレートの人も同じですよね?
普段仲良くしている異性の友達に対して「こいつは自分のことを性の対象として見ているに違いない…」と常に思いながら接している人は珍しいと思いますが、なぜかこれがLGBTQになると「常に性の対象として見ているに違いない…」という発想になってしまう人がいるというのは不思議です。
恋愛において、「常に自分は選ぶ側」と信じて疑わない方が稀に見られますが、多くの場合、選ぶ側であり同時に選ばれる側でもあるはず。
勝手に「あいつは自分のことを抱けると思っているに違いない!」と思っていたり、思うだけでなく口に出してしまう人もいますが、誰もがあなたに性欲や好意を抱いているわけではないので安心して大丈夫だ、と伝えてあげたいですね。
「バイセクシュアルは変化の過程」は本当?
「バイセクシュアル=誰でもいい」というのはありがちな誤解ですが、他にも「バイセクシュアルはレズビアン/ゲイになる過程」と捉えられるのよくある誤解の一つです。
たしかに、人生においてセクシュアリティが変わる可能性もあります。上で例として挙げましたが、数年前は男性と付き合っていたが、最近は女性としか付き合っていないという女性はバイセクシュアルかもしれませんし、レズビアンかもしれません。
しかし、少なくともバイセクシュアルはレズビアン/ゲイへの過渡期ではないのです。その事実を無視して「結局男/女が好きなんでしょう?」「要は同性愛者ってことでしょう?」と決めつけるのは避けた方がいいでしょう。
そもそもストレートの人に対しても、普通は勝手に恋愛観を決めつけたりはしないですよね。「君は年下と付き合うことが多いから、つまりロリコンだよね!」なんて言われたら、「なんだこいつ?」と思うでしょう。相手がストレートであれLGBTQであれ、勝手に人のことを決めつけるのはおかしいはずです。
「異性と交際したからストレートになった」は間違い
両性に対して恋愛感情を抱くバイセクシュアルは、場合によっては異性と交際することもあります。それを見て、「バイセクシュアルじゃなくなったんだ」と考える人もいるようですが、これは少し違います。
ストレートとして異性を好きになるのと、バイセクシャルとして異性を好きになるのは、同じように見えて意味合いが異なるのです。
悪気なく「異性と付き合ってるってことは、バイセクシュアルをやめたんだね!」などと言ってしまうこともあるかもしれませんが、バイセクシュアルはやめようと思ってやめる類のものではありません。
バイセクシュアルは生産性のない存在なのか
少し前にLGBTQに対して「生産性がない」と言い放った人がいましたね。少なからず、そう思っている人はいるのでしょう。
では、ストレートでも体質的に子どもができない人はどうなのでしょう?あるいは、閉経を迎えた女性や、加齢によって精子の質が落ちた男性はどうなのでしょうか?生産性がないから始末すべき存在なのでしょうか?
種の保存のためだけに生きている人はどれくらいいるのだろう?
人間が種の保存のためだけに存在しているのであれば、「生産性」という一点のみを議論していいのかもしれません。
ただし、その場合は いわゆる人間らしい文明を捨てるべきでしょう。まず、スマホなんて一番必要がありません。即捨てましょう。他の動物と同じように持って生まれた体が持っている優位性でのみ異性にアピールし、そこで選ばれなかった生物は群れの雑用を担うか、群れからはぐれて死ぬことになります。
今現在の仕事などは手放して、腕力や獲物を捕まえる技のみを磨くべきですし、餌さえ取れれば教育も不要でしょう。
食べ物の選り好みなどもしてはいけません。食事は命を繋ぐためのものなのですから、美味しいかどうかなどは二の次です。その他の娯楽は繁殖行為の成功率を確実にあげるとは言えないので不必要なはず。医療も不要ですね。弱った生き物は自然の摂理に従って排除されていくしかないでしょう。
しかし、おそらくLGBTQに生産性がないと主張している人たちは、ここまでの覚悟をもって発言しているわけではないと思われます。もちろん、これくらい過激な思想を持っていて、実際に文明を捨てた生活をしている人もいるとは思いますが、ごくわずかでしょう。
残念ながら、無邪気に「生産性」を問えるほど人間は単純ではないと思います。
同性婚を解禁したら少子化が進む?
「生産性」と関連してよく出てくるのは、「同性婚の解禁=少子化に拍車をかける」という意見。
今さら言うまでもない当たり前のことだとは思いますがセクシュアリティは「同性婚が禁止されているから異性と結婚しようかな…」というような話ではありません。
なかには、いわば「妥協の異性婚」をした人もいるかもしれません。特に、私のようなバイセクシュアルであれば、「もっといい人がいるかもしれないし、色々不満はあるけど……まあ、この人と結婚するか」と、結果的に異性のパートナーと結婚する可能性はゼロではありません。
しかし、これはあくまでも偶然です。「同性婚が禁止されているので同性愛者が異性婚をして子どもを作った」というケースはゼロではないものの、メジャーでもありません。
事実、現在の日本の婚姻制度上で、出生率は低い水準を維持しています。異性愛者たちが結婚や出産という選択肢をとらないのですから、少子化は同性婚と切り離して考えるのが自然ではないでしょうか?
権利を主張しないLGBTQはダメなのか
現在、私にLGBTQとしての権利拡大を声高に叫びたいという気持ちはあまりありません。
ストレートの人たちのなかには「LGBTQは自分たちの権利ばかり主張する」と嫌悪感を抱いている人が多いという話はSNSなどでもよく目にするかもしれませんね。しかし、LGBTQの権利について声高に主張をしないと、今度は同じLGBTQの人やその周辺の人から「自分たちの権利を主張しないなんて意識が低い!」とお叱りを受けることがあります。
この「自分たちの権利」についての意識には、個人差があって当然だと思うのですが、そうは思わない人も多いようです。
もちろん、大病を患って手術をするときに配偶者でなければ同意書にサインができないといわれ困ったというカップルや、長年一緒に暮らしてきたのにも関わらず、法的な婚姻関係にないがため相続で問題が生じたカップルなど、ストレートのカップルであれば何の問題もないことが壁となるカップルは少なくありません。
そういう「権利を求めるカップル」に対しては、望みが叶えられればいいなと切に願っています。自分らしく普通に生きたいという願いが、たいした議論もなされずに否定されるのはあまりに悲しいことです。
結局中途半端なやつが一番憎まれる
ただ、自分事として考えると、私は今はパートナーと幸せに生きるための権利より、1人でも“最低限文化的な生活”を送って一生を終えられる権利の方に重きを置いています。
なんと言っても、私は今後収入が大幅に増えることもなく、人口構成的に社会保険料は上がり続け、自身は年金ももらえず老後のお金は自分でなんとかしなくてはいけないという将来像が具体的に想像できる“若者”に区分される身。
あと40年近く働き続けられるか、病気になったときに破産などせずに治療に集中できるか、余暇に映画に行ったり美術館にいくような生活を送り続けられるか、ということの方が重大な問題として降りかかってきています。
人の幸せを奪う気も非難する気も否定する気もありません。ごく単純な話として、私の幸せとは形が違うのです。
それにも関わらず「なぜ声をあげない!」と詰められることがあります。また、「お前はバイセクシャルだから、いざというときの逃げ道がある」と責められることも。好きになる相手の性別を自分の意思で選び分けているわけではないのですが…。
なにごとも、中途半端な存在が一番憎まれるのでしょう。
実は孤立しがちなバイセクシュアル
バイセクシュアルとしての自分の経験などを踏まえ、恋愛についての雑感をお話してみました。男性も女性も恋愛対象になるというと、その部分だけがピックアップされて「ご都合主義」「時と場合で使い分けている」「結局なんでもいいやつら」とカテゴライズされてしまうことも少なくないバイセクシュアル。
しかし、実際のところは他のセクシュアリティの人と同様に、ただ人を好きになっているだけなのです。
この記事は個人的な雑感を述べているだけなので、「自分はバイセクシュアルなんだろうか?」と悩んでいる人にとってはあまり役に立たないかもしれません。それでも、自分のセクシュアリティについて答えを出そうとしている人にとって、一つの参考になれば幸いです。
文/丸楠曲…都内で働くアラサーのライター。高校生になった頃にはバイセクシュアルだという自覚があった。セクシュアリティについて質問されればカミングアウトするけれど、基本的には周りに伝えていない。
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